交換すること、交流することに価値がある

橋爪大三郎『はじめての構造主義』

「こんな難しい話をする必要なんてないじゃないか、人が人と関わるのは当たり前なんだから!」

なんておっしゃる方もいらっしゃるでしょう。おっしゃる通りです。それでも、人は人とは関わりながら生きていくものだ、ということを新しい視点でみることに挑戦したいと思います。

参考にした本は橋爪大三郎『はじめての構造主義』(講談社現代新書、1988年)。本に出てくる「構造主義」だの「レヴィ=ストロース」などということばは今日は机の引き出しにしまっておきますね。

アフリカ、アジア、オセアニア、アメリカに広がる「未開の」社会では、共通した社会のあり方があるわけです。しかも、物質的に豊かになった社会に住んでいる私たちには気づきにくい社会のあり方です。

こんな社会に生きている私たちは人と関わるとき、何か特定の目的があったり、利益が絡んで人と関わることが多くなっていないでしょうか。とくに会社や仕事での人間関係はそれに該当するでしょう。

「未開の」社会に住む人々は、そんな特定の目的や利益と関係なく、人と人とが関わり合う社会のシステムを作り上げていたのです。ここが私がスゴイ!!!と思うところです。

たとえば、その辺に落ちている貝殻なんて、何の役にも立たないかもしれません。それでも、その貝殻を別の人に送ったら、それだけで人と人との関係が生まれるわけです。その貝殻を隣の島に運ぶだけでも大変です。舟を漕ぐのも大変な体力ですし、嵐で舟が転覆してサメに食べられてしまう、そんな危険を冒してまで人と人とがつながる。それを受け取った島の人は、つぎの島へまた貝殻を届ける。受け取ったらまたつぎの島へ・・・その繰り返しが何年にもわたって続くわけです。

そんな大した価値もない貝殻が交換されるのは、モノに価値があるためでないのです。

交換によって人と人、集団と集団がつながるから価値があるわけです。人が生きていれば「交換」に関わる、つまり生きるということは人と関わる、ということなのですね。

「未開の」社会に生きる人たちは、他の集団や人と関わるための方法を作り出していたわけです。それだけ人は人同士関わる、というのは自然なことなのでしょうね。

明日は、貝殻ではなく、「何が交換されたのか」。もう少し具体的にみることにします。「カチン」と頭にくる人もいるかもれません(って私も昔はこの考え、受け入れにくいところがありました)。

 

 

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