おはようございます。

にきなりニーチェの毒舌で恐縮です。

「従属的な人々のお守り。 -支配者に従属することの避けられぬ者は、恐怖感を起こさせて支配者を抑制するような何ものかを、たとえば正義とか、率直とか、毒舌とかを所持するべきである」(『曙光』260、茅野訳)

「正義感=従属的な人々のお守り」と読むことはできないでしょうか。

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私は、会社員になる前は学校の教員でした。少なくとも私にとって、一番教員で難しいのは、教員間の人間関係です。もう退職して10近くたっても、在職中もいろいろありましたが、ここで書くわけにはいきませんので、新聞等の報道で公開されていることのみを書きます。

退職後のことです。新聞報道等では、「事務局長」となっていますが、私にとっては「元教頭」です。業者から収賄し、そのお金で学校内で事務職員であった女性にマンションを買ったのです。そして出入りの広告代理店にコンサル料を払い、学校に水増し請求をし、システム会社から利益を吸い上げたのです。この一連の関係で、逮捕、システム会社社長は自殺、という事件でした。

あれほど、「子どもたちのため・・・」「教育とは・・・」「教師とは・・・」と熱弁をふるっていた人がこんな事件を起こすわけです。

 

実は、この元教頭の事件、元教頭が当時の校長の何らかの「不正?」を問い正そうとして起こったようです。

この当時の校長も同じです。教育に対しては、とにかく熱弁をふるう人です。
私は怒り狂い(もちろん本物の怒りではありません、ニセモノの怒りです)、怨み、殺意も抱き、殺して自分も死のうとまで思いました。

私もここで「正義感」をふるいます。

「いったこととやっていることが違う!」「こんな奴らは世の中から抹殺した方が社会のためだ!」「日本の教育をよいよくするために、こんな奴らを処刑すべきだ!」

人格適応論でいう信念型(パラノイド型)のイメージ

よ~くよ~く考えてみれば、私も犯罪者になるわけです。私が「正義」のため人を殺したとなれば、気に入らない人がいったら人を殺してもよい、というメッセージを元生徒に送ることになります。あるいは、自分の信念のためになら自分が死んでもよい、と思えば、元生徒に命の軽さを伝えてしまうことになります。

そんなときにゲシュタルト療法に出会い、その後に再決断療法のカウンセリングを受けるようになって解決しました。

この元教頭は、この学校に私を迎えてくれた人です。2度目に会ったとき、「あなたと話をしたい」と2時間も私と面談してくれた人です。在職中も私をいつも応援してくれ、退職するときは「バカ!」といわれましたが「最後まで護ってやれなくてごめんな」とまでいってくれた恩人なのです。その愛情が憎しみに化けたのです。

元校長だって同じ。正体をはがせば、単なるふざけた楽しいおじさんです。

正義感のイメージ

ここまで書けばおわかりでしょう。「正義感」は本物の感情ではないことが・・・。

ニーチェのことばを使えば、「従属的な人々のお守り」なのです。自律的に人生を生きている人には、こんなものいらないのです。

あるいは、ヨーロッパの十字軍のように、「正義」のためにどれだけたくさんのイスラーム教徒やユダヤ教徒が犠牲になったのか、あるいは「魔女裁判」で特別な才能に恵まれた人が処刑されたのか・・・。

業界用語を使えば、「正義感」の正体は「不安感」です。不安で自分の価値を十分に認めていないため、強がるわけです。

(さらにギョーカイ用語で失礼します、「反動形成」なんていいます)

 

私がいっていることがウソだと思う方もいらっしゃると思います。そんな方、職場でも家庭でも、「正義感」が強い人をよ~く観察するとご理解いただけると思います。自然な強さではなく、強引に自分を強くみせようとしているだけです。

もし、これを読んでいるあなたが「正義感」が強いのだとすると、よ~く自分の心に耳を傾けていただきたいと思います。人間はあなたが考えているほど強いものではありません。たとえ弱くても、生きているだけで、あたには価値があるのです。

 

不安感を減らして自分のなかに安定感が出てくると、「従属的な人々のお守り」はいらなくなります。それが自律的に生きる、ということではないでしょうか。

 

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