おはようございます。

年明け早々、重い話です。というのも、いま不自由な思いをしながら生きているあなたに、少しでも自由に向けて前に進んで欲しい、と思っています。

今日ご紹介するのは、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』(池田訳、みすず書房、2002年)です。とても有名な本なので、すでにお読みいただいている方も多いのではないか、と思います。著者フランクルはオーストリアの精神科医で、1905年生まれ。第二次世界大戦中はナチス=ドイツの囚われの身となり、アウシュヴィッツの強制収容所での苦しい生活に耐えることができ、戦後も精神科医として活躍し、1997年に亡くなりました。

1930年代、ドイツでナチスという政党が政権を獲得すると、ユダヤ人に対する弾圧が極度に厳しくなり、とくに第二次世界大戦(1939~45)中に不利になると、ユダヤ人に対する迫害はますます激しくなり、約600万人の方々が犠牲になったといわれています。アウシュヴィッツは現在のポーランド領にあり、人体実験が行われたり、具合が少しでも悪くなって働けなくなれば、ガス室に送られて殺される、という状況でした。

フランクルはそのような過酷ななかでも生き延びた人です。『夜と霧』では、その悲惨な収容所生活について克明に記されています。そして、その内容について今日は触れません。

ここであなたに知って欲しいことは、人間は思い込んだとおりに生きること、そして自分の選択で自由に生きることもできることです。

2例ご紹介します。

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1例目。

「最近、おかしな夢をみましてね。・・・」

わたしは、いつその夢をみたんですか、とたずねた。

「1945年2月」と、彼は答えた(そのときは3月の初めだった)。

それで、夢の中の声はなんて言ったんですか、と私はたたみかけた。相手は意味ありげにささやいた。

「3月30日・・・」

このFという名の仲間は、わたしに夢の話をしたとき、まだ充分に希望をもち、夢が正夢だと信じていた。ところが、夢のお告げの日が近づくのに、収容所に入ってくる軍事情報によると、戦況が3月中にわたしたちを解放する見込みはどんどん薄れていった。すると、3月29日、Fは突然高熱を発して倒れた。そして3月30日、戦いと苦しみが「彼にとって」終わるであろうとお告げが言った日に、Fは重篤な譫妄状態におちいり、意識を失った・・・3月31日、Fは死んだ。死因は発疹チフスだった。

・・・仲間Fは、待ちに待った解放の時が訪れなかったことにひどく落胆し、すでに潜伏していた発疹チフスにたいする抵抗力が急速に低下したあげくに命を落としたのだ。・・・

(126~127ページ)。

話は1945年3月です。3月にはアメリカ・ソ連・フランス・イギリス軍がドイツを倒して自分は解放されると信じていた人です。思ったとおり、3月31日に、死ぬことによって自分を解放したのです。(ドイツが戦争に負けたのはその1か月強くらいです)

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もう1例です。

医長によると、この収容所は1944年のクリスマスと1945年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者を出したのだ。これは、医長の見解によると、過酷さを増した労働条件からも、悪化した食料事情からも、季候の変化からも、あるいは新たにひろまった伝染性の疾患からも説明がつかない。むしろこの大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、というのだ。クリスマスの季節が近づいても、収容所の新聞はいっこうに元気の出るような記事を載せないので、被収容者たちは一般的な落胆と希望にうちひしがれたのであり、それが抵抗力におよぼす危険な作用が、この時期の大量死となってあらわれたのだ。

(128ページ)

クリスマスには家に帰りたい・・・そんな希望をもつことは、あの苦境にいたら誰だって持ちたくなるでしょう。そしてクリスマスには家に帰る希望が失われると、無意識のうちで死を選ぶわけです。

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とても極端な例かもしれません。この過酷な環境のなかで死を選んだ人もいれば、生きることを選んだ人もいるのです。

生きることを選んだフランクルは以下のようにいっています。

人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない・・・(110ページ)。

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

(130ページ)

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どんな環境にあっても人間は自分の選択で生きることができる、そして生きることに何かを期待するのではなくそのとき問われていることに答えを出すことが生きることである、という非常に厳しい考え方です。これを自分の責任ではなく、周りの環境のせいにすると、ますます苦しくなるわけです。そして、いま目の前にある課題に誠実に取り組めば問題を解決して自由に前に進むことができるのです。

続きはまた明日、お話しします。