人生はなにかをする機会である

おはようございます。

昨日からフランクルの著書を使って生きることについて書いています。

今日はその第2弾として、『それでも人生にイエスと言う』(山田訳、春秋社、1993年)を使いながら考えます。アウシュヴィッツの収容生活をみるならば『夜と霧』でしょうが、フランクルの考え方を知るには、『それでも人生にイエスと言う』の方がわかりやすいでしょう。終戦直後、1946~47年の3講演の内容です。

まず、引用します。

「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に答えなければならない、答をださなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです」(27~28ページ、強調部は引用者)。

非常に厳しい表現であり、この意味がわかれば、たぶんあらゆる困難なことへの対処も楽になるでしょう。

幸い、フランクルはわかりやすい例を出しています。

「チェスの世界チャンピオンにインタビューして、『ところで、先生、どういう手が一番いい手だとお考えでしょうか』と尋ねるようなレポーターの質問が、とんちんかんなのとおなじです。そもそも、まったく特定の、具体的な勝負の局面、具体的な駒の配置をはなれて、特定のいい手、そればかりか一番いい唯一の手というものがありうるのでしょうか」(30ページ)。

チェスの名人は「いい手」を知っている、というより、相手の出方を読みながら何100という手を考えながら対応しているのはご理解いただけると思います。条件一つ変われば打つ手もかわるわけですから、事前に何かを計画して行動することと、起こったこと、起きていることに対応していくことが大切なわけです。

そして

「人間は、息をしているうちは、そもそもまだ意識があるうちは、人生が出す問いにそのつどそのつど答えていくという責任をになっているのです」(44ページ)。

責任とは、英語でresponsibilityといいます。responseとは答える、対応するの意味、abilityは能力ですから、責任とは問いに答える・対応する、という意味です。フランクルはアウシュヴィッツにいたとき、人生に対する課題に答えることで生き延びたのです。

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何かをするとなると、当然困難な課題にぶつかるでしょう。その困難な課題とは人それぞれ課題の作り方が違うのです。人と関わりながら解決するのはとても大切です。そして「どうしたらいいでしょうか」と満足な答えは得られないでしょう。あるいは、「常識では・・・」「社会的には・・・」と社会の価値観に基準を合わせても、何か不満が残るでしょう。

答えはあなたのなかにのみ存在します。その自分が出した答えに対して「正しい」かどうかも自分が判断するのです。うまくいかないと思えば、やり直せば済む話です。

誰かに、あるいは社会がつくった基準に自分をあてはめようとしたらつらくなるだけです。いまあなたはそんなつらい思いをしていませんか?

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フランクルは、フリードリヒ・ヘッベルというドイツの詩人のことばを引用しています。

「人生それ自体になにかがあるのではなく、人生はなにかをする機会である!」(58ページ)

何か起きたことに対して「対応する」、問われていることに対して自分なりに「答えを出す」・・・その繰り返しが豊かな成果をもたらします。

 

 

 

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