自分の道を見つける、ということ

おはようございます。

おとといは学者になろうとしたときの私の挫折、昨日は教員時代の私の挫折について述べました。

結局お伝えしたいことは何か、というと・・・

「ここで私たちは基本的な葛藤にぶつかります。それは、誰でも人は、そしてどの植物も、どの動物も、生まれながらに備わっている一つの目標を持っているということです。すなわち、それぞれの備わっているものを実現するということです。薔薇(ばら)は薔薇であるところの薔薇です。薔薇はカンガルーにはなろうとはしませんし、ゾウは鳥になろうとはしません」(パールズ、倉戸監訳『ゲシュタルト療法バーベイティム』ナカニシヤ出版、38ページ、強調部引用者)。

verbatim

教員時代は、専任の教員になりたくて仕方がありませんでした。そしてなったらなったで私は病気になりました。「自分はダメだ」と責め続けました。いまではそんな風には思っていません。私は教員には向かないのです。パールズがいうとおり「薔薇はカンガルーにはなろうと」しないし、「ゾウは鳥になろうと」もしません。人間だけが、別のなにかに無理になろうとするのです。しかも別な何の基準を決めているのは自分ではなく、他人や社会の価値観です。本来の自分でありたいと願う自分と、自分のなかに取り入れた他人や社会の価値観が葛藤を生み、場合によっては病気や症状であらわれることがあるのです。

ゾウが鳥になろうとして、一生懸命飛ぶ練習をしても疲れるだけです。そして飛べない自分をゾウが責め始める、なんていうことはおそらくないでしょう。

elephant

パールズのことばを借りながら続けましょう。

「・・・では、私たちが私たちにどうしたらなれるのでしょうか。一方では、個人としては、自己実現したいと欲しています。他方、私たちは社会の一員として組み込まれています。・・・社会からの要請と個人の欲求とは噛み合ないことがあります。ここに基本的な衝突があります。さて、この個々の社会は私たちの両親や、看護師や、教師などによって発展してきました。しかし、それは真の成長を促すというより、自然の掟に背いてきました。/彼らは私たちの存在価値を二つのことで曲げてきました。『もしリスクを負えば、もう愛されないでしょう。孤独になり、そうしたら死にます』。これは曲解です。そしてもう一つは暗示です」(パールズ、39ページ)。

私も元教員です。パールズがいうとおり、学校は「真の成長を促す」場所では私にとってはありませんでした。「〜べき」こと「正解」「答え」を教え、成績という基準で生徒を押し込め、私に対して学校の都合で動くことが絶えず要求されます。

学校は私の居場所ではなかったのです。

あなたがいま身を置いている環境は、あなたが本当に望んでいる環境でしょうか。パールズのことばを再度使えば、

『もしリスクを負えば、もう愛されないでしょう。孤独になり、そうしたら死にます』。これは曲解です。

自分が生きる道をみつける、ということは本当に大変なことです。そして、とてもやりがいのあることです。

あなたにチャレンジするお気持ちがあれば、私が全力をあげてサポートいたします。

 

 

Related Articles:

Post Footer automatically generated by Add Post Footer Plugin for wordpress.


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です